2/23 在宅医療講演会
- 2024.02.24
2/23(金)、天皇誕生日の祝日に、キラリエホールで講演会をしてきました。同じような人もいると思いますが、自覚があって気を付けていても、しゃべっているうちにどんどん早口になってしまいます。聞き取りづらかった箇所もあったかと思われますので、原稿を掲載します。「痛くない死に方」という映画の上映後なので、これを観た前提での講演になります。
30分の講演依頼でしたので、標準的には300×30字程度の原稿が必要です。私の場合は気を付けても早口になることを考慮して、約10000字の原稿を作成しました。
ただ今、ご紹介にあずかりました安川クリニック院長安川です。
とくに大した肩書きもありませんが、4年ほど在宅医療を続けてきました。今回は、その経験をもとに、皆さんに「言うべきこと」「言っておきたいこと」があり、この壇上に立つことを引き受けました。
一つは、先ほどの映画にもありました、痛くない死に方、在宅での看取りについて、私がそれを目指すようになった経緯、また、私が目指している在宅医療の形を。
一つは、医者側から見た在宅医療の厳しい現実も知っておいてもらいたいのです。ちょっと、こっちもしんどいんだよ、という愚痴。
さて、どちらの話から始めようかと悩んだのですが。皆さんに決めてもらうことにしました。アメリカのドラマでよくある、「いいニュースと悪いニュースがあるんだが、どちらから聞きたい?」というやつです。というわけで、会場の皆さんの挙手で、本日の講演内容の順番を決めようと思います。いいニュースは「在宅医療の今後について、希望の話」、悪いニュースは「医療者側の負担について、悲観的な話」、どちらかに挙手願います。
それでは「いいニュース」から聞きたい人。
続いて「悪いニュース」から聞きたい人。
さて、それでは「悪いニュース」から始めようと思うのですが。その前に。講演でこんな方法を取ったのは、「挙手しなかった人」を探すためでもあります。確かに「選ばない」という選択肢、例えば白票を投じるという選択肢はあります。平和な日本では、なんとなく流れに乗っていれば、なんとなく上手くいこだろう、という謎の安心感があります。しかし、こと終末期医療で「選ばない」ということは、多くの場合延命治療を受け入れることにつながります。もし、今、手を挙げなかった理由が、「めんどくさい」「他の誰かが決めてくれるだろう」「選んだ責任をとりたくない」などであれば、これからは自分の意思で、自分の責任において、めんどくさがらずに、どちらの道を進むか決めることを強くお勧めします。
それでは改めまして。愚痴っぽい話になりますが。私たち医療者側から見た在宅医療の風景も知っておいてほしいのです。
ひょっとしてひょっとしたら、先ほどの映画に出てきたような、この人に任せておけば何の心配もなく在宅での看取りが実現できる、そんな名医がここに立っている、と期待させてしまっているなら、まず、その誤解から解かねばなりません。映画に出てくるようなスーパーDrが何人もいてくれれば、大東市の在宅医療も安泰なのですが。実際は、私程度の在宅医が数人いるだけです。現実と映画のギャップを知ってもらいましょう。
私自身、「病気ではなく人を診る医者」を目指していますが、その「人を診る」という言葉が拡大解釈されている気がします。病気ではなく人を診る、というのは、例えば、糖尿病患者でも、血糖値ばかり見てはいけないよ。血糖値をコントロールするのは、脳梗塞や心筋梗塞などの合併症を防ぐのが目的なのだから、血圧やコレステロールも見ないといけないし、タバコ吸っているなら禁煙もさせないといけないよ、という意味です。その人の、これまでの生い立ち、趣味、家族構成、将来の展望。その人の人生そのものまで診るという意味ではありません。
医者の主な職務は「病気の治療」です。人助けやボランティア活動ではなく、病気を治す代価として、お金を頂き、生活の糧にしています。職業の種類としてはサービス業に分類されます。例えば、学校の教師に「箸の持ち方」「早寝早起きのしつけ」「食事の好き嫌いの解決」まで要求する人がいるらしいですが、それは教師の仕事ではありません。銀行員に「相続争いの仲裁」「無職の子供の将来の展望」まで相談する人がいますが、それが銀行員の仕事ではありません。各分野に、職務を超えてサービスする素晴らしい人材もいますが、それらは例外であり、一般的には、一定のお金を払って得られるのは、一定のサービスです。医者の仕事も同様で、病気の治療以上のことは、お支払い頂いた料金の範囲を超えます。
実際に私が経験した話です。ある病院で当直中、腰痛が悪化した高齢者が救急搬送されてきました。持病の腰痛が悪化し、離れた所に住んでいる家族に助けを求め、様子を見に来た家族が救急要請したケースです。もともと腰椎の圧迫骨折があり、その他の異常はなく、慢性腰痛の急性増悪として鎮痛剤を処方し、自宅での安静、翌日整形外科受診を指示して帰宅としました。その後、家族が怒鳴り込んできました。こんな状態では買い物も行けない、一人暮らしで今後どうしろというのか。入院させて生活できるようになるまでリハビリをさせたり、介護施設に入所できるよう手配しろ、とのことでした。どうやら家族さんは、1,1,9,とボタンを三つ押した時点で自分のすべきことは終了しており、その後の全ての面倒は救急車を受け入れた病院が何とかするのが当たり前、俺は明日も仕事があるからあとはヨロシク、とお考えのようでした。いちおう確認しておきますが、今回の場合、医者の仕事は腰痛の治療であって、その人の生活を保証することではありません。急性腰痛で入院することはありますが、夜間休日の人手が少ないときは遠慮してもらっています。しかし残念ながら、とくに医療機関では、ごねたモン勝ちのところがありまして。結局、緊急入院となり、ケアマネージャーの手配など、病院職員が手続きをすることになりました。しかし同じように、腰痛で、めまいで、食欲不振で、認知症で、一人暮らしはできないからと119番で緊急入院を受け入れていたら、その医療機関の業務は破綻します。一般的な医者に、病院に、患者の人生を背負うほどの能力はありませんし、それは職務の範疇外です。
私は、先ほどの映画のように、患者の家で記念写真を撮ったり、酒を酌み交わしたり、お葬式に参列したり、墓参りをしたことはありません。外来診療をしながら、月70人ほど訪問診療を担当しています。70人と家族同然の付き合いをすることなど、できるはずもありません。特定の患者と仲良くして、他の患者と区別するのは、同じ医療費を払っているのに不公平だと考えます。
さて。そんな、私のような病気の治療以外は関わらない在宅医でも。それでもその負担は並大抵ではありません。
想像してほしいのですが。例えば先ほどの映画を参考にすると。主人公の河田Drが、己の未熟さを悔いて改心し、本多さんという末期患者を見事に看取りましたよね。もし、現実問題として、その本多さんがもう数日中に最期を迎えそうな時期に、主人公が「すいません。半年前から家族とディズニーランドに行く約束をしてまして。3日ほど居ません。その間に急変したら代理の医師が対応しますね」とか言い出したら、納得してもらえますか?できませんよね。自分が、自分の家族が生死の狭間をさまよっているときにディズニーランド!?ってなりますよね。在宅医療では複数の高齢者や末期癌患者を診ているのですから、常に誰かが急変する可能性があります。つまり在宅医はディズニーランド、その他の旅行に行けません。行けたとしても、私の場合、呼び出されてすぐに戻れる近畿エリア内。直前に予約が取れる所で、日帰りか一泊旅行が限界でしょうか。北海道や沖縄なんて論外、海外旅行など夢のまた夢です。私自身、この4年間は近畿から出たことがありません。盆や正月関係なく、在宅医を続ける限りは20年でも30年でもこの状態が続きます。
また映画で別の場面。主人公が、居酒屋でベテラン在宅医の長野Drに相談するシーンがあります。このとき長野Drが呼び出されて中座するのですが。不自然さを感じませんでしたか?分かりますかね?長野Drがお酒を飲むところが映されていません。わざとらしく「お茶おかわり」などというセリフを挟んで飲酒していないことをアピールしていました。もし飲酒していたら、呼び出されても運転できないからです。逆に主人公は末期癌の本多さん宅で花火を見ながら日本酒を飲むシーンがありました。帰りは看護師が運転していましたが。もし、あのとき、あるいはあのシーンの数時間後に、本多さん自身や別の患者が急変していたら。車で駆けつけることはできなくなります。自分で運転できなくても、運転手を雇ったり、タクシーを手配するなどの代替手段もあるのですが、深夜3時にタクシーを呼び出すのはそう簡単ではありません。やはり、原則として、在宅医は酒は控えますし、酔っぱらうことはできません。盆や正月関係なく、在宅医を続ける限りは20年でも30年でもこの状態が続きます。
さて、あなたの夫が妻が子供が、「在宅医になる。悪いけど、これから30年間、ときどき深夜に電話がかかってくると思う。24時間いつ呼び出されるか分からない。旅行には行けない。酒も飲めない。」と言い出したら、あなたは受け入れられますか。「やめときやめとき。せっかく医師免許があるのに。そんなアホなことせんでも、もっと楽で優雅な生活ができるやん」と止めるのではないでしょうか。
実際劇中でも、主人公は離婚しました。若い女医さん井坂Drが「私結婚できますかね?」と心配するシーンがあり、明確には答えていませんでしたが、まぁ結婚はできないでしょう。
ということは、今後、在宅医を増やそうとするなら。
今後数十年、旅行も行けず、酒も飲めず、の状態を受け入れることができ、かつ、家族全員がすごーく理解がある場合か離婚前提か、未婚の場合は結婚を諦められる、という条件を満たした、在宅医療に興味がある、医師免許を持った変わり者、を探さねばなりません。今回の映画の原作者である長尾Drも、自分のことを「けったいな町医者」とおっしゃっています。
もし、私たち在宅医にお酒や旅行などの普通の生活を許していただけるとしたら。医者も凡百のサービス業の一つであることを皆さんに理解していただいて。美容院や銀行や英会話教室と同じく、「あ、今週は担当者が休暇中なので、代理の者が対応しますね」というセリフを快く受け入れていただくしかありません。
しかしまぁ、変わり者の医者はそうそういないでしょうし、患者さん側の意識もなかなか変わらないと思います。今後、在宅医療を望む人が増えることが予想されますが、対応する在宅医を増やすことは非常に困難です。
実は、私も数年前までは、大東市の在宅医療のワーキンググループに参加するなどして、在宅医療の普及に協力している時期がありました。しかし、新しい在宅医が現れる気配はなく、ACPも人生会議も広がる様子なく、モチベーションが尽きてしまいました。「もう、自分の手の届く範囲で、趣味としてやっていこう」と考えるようになりました。
と、まぁ、在宅医療の担い手は増えそうにないと諦めていたのですが。どうも最近、大東市にも在宅医療をしようとする病院が増えてきているとの噂を耳にしました。
先ほど言っていた通り、モチベーションは尽きていたのですが、多くの人が在宅医療を希望するようになれば、何か変化が起き始るのかもしれない。そんな漠然とした期待をもって、私の目指す、在宅医療、在宅看取りについてお話ししようと思います。
では。気を取り直して。「いいニュース」の方。
私が在宅医療を志すようになったのは、いろいろな出来事の積み重ねですが。印象に残っている患者さんがいます。
例えば。研修医を終えて数年目に、進行癌の—-代後半患者の担当になりました。治癒することは困難と思われましたが、マニュアルに従い、抗癌剤を投与していました。その患者さんは、私が点滴しに来るたびに「ありがとうございます」「ありがとうございます」とお礼を言われるのですが、何せ抗がん剤ですから、点滴するたびに体調を崩されます。結局、—-後に癌が進行して亡くなられました。昔の大学病院ですから、管だらけになって。結局、この患者は、何に対して「ありがとう」と言っていたのか、を考えると辛くなって。根治が難しいと分かった時点で点滴を抜いてあげて、家に帰って昼寝でもしてた方がよっぽどマシだったんじゃないかと、忘れられない患者の一人です。
あるいは、脳梗塞で寝たきりの—-代患者を診ていたことがあります。私が引き継いだ時点ですでに意識はなく、胃婁が作られていてる状態でした。—-さんが一人で介護されていました。結局、それから–年ほどして亡くなられましたが、寝たきりになって–年くらい、脳梗塞で倒れてからは10数年、時間がたっているとのことでした。患者さんが亡くなられた後、—-さんは、疲れ果て、燃え尽きてしまったような状態で。逆算すると、—-歳頃から—-代後半になるまで親の介護をしてきたことになります。突然解放され、これから何をすればよいのか、茫然としているようでした。この時、私はもし自分だったら、と想像して身震いしてしまったことを覚えています。もし、この—-さんと同じ立場だったら・・・ではありません。自分がこの寝たきり患者だったら、と想像してしまったのです。–年間、天井だけを見続け、食べることも飲むことも出来ず。話をすることも、本を読むこともテレビを見ることもできず。ただ明るくなって暗くなってを繰り返すだけ。その横では、—-が、自分の胃婁の管理と下の世話に追われ、旅行にも行けず、日に日にやつれていく。仕事に制限があり、経済的にも厳しかったと思われます。優しい言葉をかけられた日があるかもしれないし、聞きたくない言葉を聞かされた日もあるかもしれない。でも何も答えることができない。そんな日々が、いつ終わるとも知れず続いている。そんな想像をしてしまい、慌てて意識があったはずがない、意識はなかった、と自分に言い聞かせたことを覚えています。
あるいは—-代の末期癌の患者。この患者には何もしなかったのです。手術後、癌が再発。抗癌剤治療を断って自宅療養中。完全寝たきり状態で、ご飯も食べない、水も氷をなめる程度。でも点滴は「嫌い」と拒否。水分も摂らなくなって—-後には意識が朦朧とし始め、次第に呼吸がゆっくりとなり、静かに息を引き取られました。衝撃でした。私にとって、人が亡くなるときに、点滴が一本もない、酸素吸入器もついていない、胃婁の管も、鼻からの栄養チューブも、おしっこの管すら入っていない。その時すでに20年以上医療にかかわってきましたが、管の一本もない状態で人が亡くなるところを初めて見ました。
実は。人って、息を引き取るときに、そんなにもがき苦しむようにはなっていません。というか、人に限らず、生き物の最後は、犬だって、象だって、魚だって、最期は静かに息を引き取ります。生物の最後を苦しめる要因というのは、事故だったり、他の動物に襲われたり、・・・医療行為であったりします。
人間に限らず、動物は、死期が迫るとまず、食べなくなります。続いて、飲まなくなります。この時点で、肝不全を起こせば肝性脳症で、腎不全を起こせば尿毒症で、昏睡状態となります。この肝不全や腎不全で意識がなくなることを自然麻酔と表現することがあります。そして意識がなくなってから、呼吸が弱り、心臓が止まり、脳の機能が失われて穏やかに死を迎えます。
しかし何らかの理由でこの順番通りのことが起こらなければ、意識がある状態で、呼吸や心臓が止まり始めてしまい、苦しむことになります。この順番を狂わせる原因が例えば点滴であったりします。
なので、私個人は、人が静かに息を引き取る準備を整えているのを邪魔したくないと考えています。
でも、何かしら延命できる方法があるのに、それを「しない」のが難しいのも理解しています。
昔であれば、患者さんがもう数日中に亡くなりそうなとき。医者が来て「残念ながらもうできることはありません。手を握って声をかけてあげてください」と言うでしょう。静かに見守ることもできたでしょう。でも、現在は選択肢が増え、たぶん医者はこう言います。「このままでは数日中に、心肺停止します。点滴をすれば、胃婁を作れば、呼吸器につなげれば、数日から数週間延命できる可能性があります」そう言われて家族が「いいえ、結構です。何もせずに見守ります」と言えるでしょうか。そうです、望まれない延命の半分は医者のせいです。でも、インフォームドコンセントだの、コンプライアンスだの、責任を他者に求める社会では、医者も自分を守るために、選択肢は提示せねばならないのです。
また、別の患者。—-代、脳梗塞で意識なく、胃婁で延命されている患者でした。私が担当したのは最後の–年くらいで、最期は在宅での看取りとなりました。家族全員、孫まで参加した家族総出の介護でした。亡くなった時もみな笑顔で、やれることはやった達成感だったように感じました。しかし、その時の—-さんのセリフが「俺の時は胃婁なんかせんと自然に逝かせてくれよ」だったのです。自分がされたくないことを、親にはするのか?お前が終末期になったら絶対胃婁入れたるからな・・・というのは冗談ですが。冷静に考えれば、介護の大変さを知り、自分の子供たちには苦労をかけたくない、という思いやりの発言だったのかもしれません。しかし、この患者さんの延命は、誰のための何のためのものだったのか、モヤモヤが晴れませんでした。
その他にも様々な症例を経験し、自分のやりたい在宅医療の形が少しずつ出来上がっていきました。
ところで。今さらですが。
実は私、人に何かを勧めるのは苦手です。自分が平均的な人間ではないという自覚があるのと、人はそれぞれ違う、という思いが強すぎて。例えば、「どこのラーメンが美味しいですか?」とか「お薦め映画を教えてください」とか聞かれるとすごく困ります。私が好きなラーメンや映画はあるのですが、それがあなたのお気に召すかは分からない。だから、「どこどこのラーメンは美味しいですよ」「なになにの映画は面白いのでぜひ見てください」と自信をもって言える人をみると羨ましく思います。
そんな私ですから、今日も、「ぜひ在宅医療を!」とか「在宅看取りをしましょうよ!」とか勧めるつもりはないのです。
ので。私の考え方が正しいと主張するつもりはありません。いろいろな考え方があり、そのうちの一つとして、「こういう考えで在宅医療をやっている医者もいるよ」という前提で、今から言う話を聞いてください。
私が実践したい在宅医療の根幹は二つ「本人が望むこと以外はしない」「でも痛いのはイヤ」です。
映画の最後にもありましたけど。「リビングウイル」ってやつ。あれって「して欲しいこと」ではなく「して欲しくないこと」を宣言しているんですよ。なんでやねん。なんでわざわざ「して欲しくないこと」頼まなアカンねん。頼まれてないことは、そもそもしなくていいんちゃうの?と思うわけです。
そりゃ、道端に倒れている人がおって。「どうします?助けて欲しいですか?」って確認できないのは分かります。でも、終末期って、そうなるまでにだーいぶ時間があったでしょ?その間に「こうして欲しい」と頼まれたこと以外はしなくていいやん、と思うのです。
世間はそうではないようで。
認知症の進んだ患者さんはどうするんですか?自分で治療を選べませんよ。と聞かれたことがあります。同じです。本人が望まないんだから治療は不要だと思っています。「じゃあ、認知症の人は死ねっていうんですか。この患者さん、身動きもお話もできないけれど、お花を見せたらニコって笑うんですよ」と言われました。私の言葉、録音して聞き直してもらいたかったです。「死ね」なんて一言も言ってません。逆に聞きたいくらいです。自分一人で食事も排泄も出来ない、何かを選択する意思もない、そんな人に、「生きろ」って安易に言っていいんですか?極論ですが、医学が進んで管さえつなげば120歳くらいまで生きれるとしたら、あと40年、花を見せたらニッコリするだけの人を延命し続けるんですか?あと数年以内と思っているから、ちょっと頑張ろうかな、という気持ちではありませんか?と。
いちおう言っておきますが。私は延命処置を否定しているわけではありません。本人が望まない延命をなくしたいだけです。だから前もって宣言しておいてほしいのです。延命して欲しいか、欲しくないか。今の日本は「延命拒否の意思確認ができなければ延命する」国です。だから決めておいてもらわないと、家族や医療関係者が悩み苦しむのです。特に私は、望まれない延命処置をするのは嫌なのに、家族の事なかれ主義のために、そしてそれ以上に自分の医師免許を守るために、患者を苦しませる処置をするのがすごく嫌なのです。
本人が望まない延命が放置されている理由は大きく3つあると思います。
一つは、「先送り」。面倒なことは避けて先送りにしてきたこと。本人の希望をちゃんと確認しておかなかったこと。
一つは「責任回避」。自分が選んだ結果の責任を取りたくないという。だったら無難に医者の言う延命治療をしておこう。それなら誰からも文句を言われることはないだろう、という。
そして一番問題なのは「当事者意識の欠如」。延命された患者本人が、無理やりに生かされた人が、どんなに辛い目にあうか考えない。もし自分だったら・・・と想像することをしない。死んでしまうから、あとで文句を言われることもありませんから。
もし自分が食べることも億劫になり、穏やかに息を引き取ろうとしているときに、手や足に針を刺されて無理やり栄養補給をされたいだろうか。認知症で自分の意思で選択することも出来なくなり、食事も排泄も人の世話になる状態で、管につながれてまで延命されたいだろうか。口から食べると誤嚥性肺炎を起こすかもしれないからと言われて、胃婁を作ってほしいだろうか。
本人が希望するなら全然問題ないのです。前々から「俺は一分一秒でも長生きしたいから、最期が近づいたら、点滴でも人工呼吸器でも、やれることは全部やってくれ」とか。「認知症になってワケがわからくなっていても、受けられる治療は全部やって出来るだけ長生きさせてね」とか。誤嚥性肺炎のリスクの説明を聞いて「分かりました。もう口から食べるのは諦めます。胃婁を作ってください」と本人が希望するなら。
でも、そんな人はあんまりいないんじゃないでしょうか。
私は96歳まで長生きすることを目標としているので、最後まであがくつもりです。でも、私があがき終わったら、勝手に後ろから押したりしないで欲しい。胃婁や点滴はもちろん、無理やりご飯を食べさせるのもやめて欲しい。勝手に薬を増やさないで欲しい。自分で「お腹すいた。ご飯食べたい」とも言わなくなったら、どうか放っておいて欲しい。私にとって、それで死んだとしても、それは餓死ではなく老衰だから。私にとって、「人間として生きる」とは、意思をもっている状態を指すので、「映画が見たい」「たこ焼きが食べたい」とも言えずに1日中天井を見て、人が口元に持ってきたものを口にするだけの状態は、私にとっては「生きている」状態ではない。
安楽死なんて贅沢は言わない、ただ、生き地獄は勘弁して欲しい。家族や医療関係者の、義務感、達成感、責任回避、同情なんかで、私を苦しめないで欲しい。どうか、どうか、最期は自分の好きなように死なせて欲しい。いや、ちがう、自分の好きなように生きさせて欲しい。死に方を決める、というのは実は生き方を決めることです。死ぬというのは、一瞬の出来事であり、終点です。どこを終点として、そこにどう辿り着くのか、それは死に方という言い方もできますが、生き方とも言えます。私が逆らう能力がなくなったのをいいことに、自分たちの思い込みや都合で勝手なことをしないで欲しい。
まぁ私ほど極端に「何もしないで欲しい」という人は珍しいかもしれない。でも、私はそれを望んでいる。しかし現状をみると、それをかなえてもらうのは意外と難しそうに感じる。少なくとも病院に入院しているときは無理そうだ。だったら、自宅で看取ってもらうしかなさそう。それでも、家族が、医者が、看護師が、ケアマネが、「なんもせんわけにはいかんよねぇ」とか言い出しそうな気がする。「望まない人には何もしない」を実践する医者は意外といなさそうだ。こうなったら、自分でやるしかない。
で。現在に至ります。
私が自分自身の最期に望むこと。
長生きはしたいが、長生きさせられたくはない。自分で理解して望んだ治療以外は一切しないで欲しい。食べなくなったら老衰と思ってくれ。いちおう念のため言っておくと、痛そうなら何とかしてね。
もし、「あ、それいいかも。私もそれ注文するわ」という方がいらっしゃったら、当院にご相談ください。
・・・と言いたいところですが。すみません、当院の訪問診療はもう定員オーバーでして。しばらく新規患者を受け入れる余裕がありません。悪しからずご了承ください。
在宅医が少ないと、在宅医療を受けること自体が難しいのはもちろん、選択肢がなくなります。他にいないからといって、うっかり私に頼むと、薬や点滴が減らされてしまいます。
在宅医療の充実のため、在宅医療を希望する世論の高まりにご協力お願いします。そうしたら、私も、家族とディズニーリゾートに行ける日が来るかもしれません。
以上が発表原稿になります。緊張して、飛ばした文章もありますけど。
講演の後、「在宅医も休暇取っていいよ。看取りに違う医者が来ても気にしないよ」という意見を頂けたのは予想外でした。自分自身と、在宅医療の将来に、少し希望が見えた気がしました。