見方が変わった童話 その2
- 2021.04.29
個人的に、歳を取るにつれ、解釈に変遷のあった童話がいくつかあります。例えば…
ハチドリの一滴(ひとしずく)
南米アンデス地方に伝わる昔話だそうです。
山火事が起こり、あらゆる動物たちが逃げ出す中、一羽のハチドリが水を一滴ずつ運んでは火を消そうとします。他の動物から「無駄なことを」と笑われますが、ハチドリは「私は私にできることをしているだけ」と答えます。
お話はここで終わりです。その後、山火事がどうなったのか、ハチドリや他の動物がどう行動したのかは分かりません。動物たちが協力して山火事を食い止めたのかも知れませんし、ハチドリの行為はやはり無駄だったのかも知れません。
例によって。
子供の頃はよく分からないままハチドリの健気さに心を打たれていましたが。小学生も高学年になると、
「山火事に水を一滴たらすことに何の意味あんの?」
「子供がこの話聞いて真似したらどうすんねん。火事の時はまず火から逃げる。他の動物の判断が正しい。」
など、少し辛辣な意見に変わってしまいました。
そして現在。このお話に対する解釈は再度大きく変わったのですが、いまだに上手く言葉に出来ません。「無駄だけど無駄ではないこと」でも言いましょうか。私はハチドリの行為は無駄だったと想像しています。一羽の鳥が火事を消せるはずがありませんし、一つの行動で皆の気持ちが動くほど世の中は甘くありません。でも、無駄ではないのです。
一般的には「どんなことも小さな一歩から」のように解釈されていることが多いようです。でも、私はハチドリの火消しは「一歩」にすらならず、全くの無駄に終わってしまったと思っているのです。すなわち、火は消せず、誰の心も動かせずなかった、と。でも、それでもハチドリの行為は無駄ではないのです。その口では言い表せない価値観を伝える方法が「ハチドリの一滴」という話であるような気がしています。
選挙の時。あなたが投票に行くかどうかは、世の中に影響を与えません。投票は国民の義務ですが、「私が投票に行っても行かなくても何も変わりませんよね」と言われても、なかなか言い返せません。
カレーを作る時。隠し味のワインの銘柄ににこだわってみたところで、その差に気付く人間など海原雄山くらいのものです。
あるいは。
あなたが道端に落ちているタバコの吸殻を一つ拾ったところで、町はキレイになりません。
あなたが英単語一つ覚えてもテストの点数は変わらないし、英会話もできません。
あなたが目の前のケーキを一個我慢しても、体重は減りません。
あなたが蛍光灯をLEDに変えても、環境破壊は止まりません。
そして。
ハチドリが一滴の水を垂らしたところで火事は消せません。
でも、無駄ではないのです。
皆が投票に行くことで国は変わるかもしれず。ワインにもこだわることで、カレーは美味しくなるかもしれません。
タバコの吸い殻を拾うことも、英単語を一つ覚えることも、ケーキを我慢することも、LEDに変えることも、無駄ではないのです。
そしてハチドリが山火事に一滴の水を運んだことも。
誤解されそうなので、もう一度解説を加えますと、私の解釈は「一つ一つは小さくとも集まれば力になる」という考え方ではありません。結果や成果ではないのです。
たとえハチドリが100万羽集まっても山火事は消せません。ましてや一羽の一滴では。
それでも一羽のハチドリが一滴の水を垂らしたことは無駄ではないと感じるのです。
一歩前に進もうとしたことが大切だとでも言いましょうか。
それが “生命あるものの意志” と “機械のプログラム” との違いだとでも言いましょうか。
ああ。
やっぱり上手く言葉に出来ません。
ハチドリのセリフ。
「私は、私に出来ることをしているだけ」
普通に道徳的な言葉としても解釈できるのですが、もう少し哲学的に捻ってみても面白い言葉です。